信仰告白私解1 宗教について

信仰告白 - 窪田圭佑の比例中項

私はK大学文学部宗教学専修にて、宗教を「人が人と交わりつつ、本当に自己自身となる過程を歩むこと」と捉え、現代においてその道を歩むためには従来の禅などの伝統に加えて、心理療法と、野口整体の知見を活かすことが有用と考え、研究しました。

ここでは宗教を「人と人が交わりつつ、本当に自己自身となる過程を歩むこと」と捉えたということにしている。これは、元々は西谷啓治の「実在の実在的な自覚」という定義を念頭におきつつ、心理療法に親和的に書いてみたものだ。

実在が自覚する、真実が真実として目覚めるということである。実在というのは本当に存在するもの、確かなもの、宗教の言葉でいえば神である。そして自覚というのは英語で言えばrealize、実現すると共に理解(体得)されるということ。そしてそれが実在的に、つまりリアルに、自分自身にとって本当に、ということが含まれる。実存的に、と言っても良い。

実在である自分が、自分自身で本当に、実在として実現する過程が宗教と呼ばれている。

これは神の側でも人間の側でもないところから宗教を捉えるすぐれた定義だと思う。非常に動的で、実りある展開を生んでゆく。

西谷は哲学という文脈で宗教を論じており、僕は心理療法という分野で宗教を生かそうとしている。そこで、あくまでも人間の心ということに焦点が当てやすいように書いてみたのが、「人と人が交わりつつ、本当に自己自身となる過程を歩むこと」という定義である。

実在が自覚する過程で、人は人と交わるということを抜きにすることはできない。人と本当に交わることができない、ということの痛切な自覚が宗教的求道の一部でなければならない。そして本当に人と交わるとはどのようなことか、どうすればそれができるのか、ということが問い直されなければならない。

とはいえ交わってばかりでも駄目であり、どこまでも神の前に一人立つ、という態度も必要である。一切を尽くして神を愛する、という態度のひとつの表現として、人を愛するということがなくてはならない。そして人を愛するとき、神のことを忘れるくらいでなくてはならない。一度すべてから離れきって、そこからまた関わる、というのが宗教的探求のひとつの形であろう。そいういうことを全て含みこんだ上で、「人が人と交わりつつ」。

「本当に自己自身となる」

ということだけれど、本当に自己自身となると言っても、何かこれから実現されるべき自己というものが別にあって、それを目指していくというわけではない。ただ、いつでもどうしようもなく自己自身であることに目覚めていくだけだとも言える。とはいえその歩みをひとつの視点から見ると、偽物の自分、誤って自己同一化した様々な実在でないもの、が、手放されてゆき、元々あった本来の自分、すべてに気づいてゆく過程、と言えなくもない。

「過程」

そしてその歩みは終わりがない。これで完成、という決まったゴールがあるわけではない。もし終わりがあるとすれば、終わったのは偽りであり、それは終わりなきはじまりでなければならない。

 

だいたいそのようなことを考えて書いていたように思う。書いたときには本心であったし、この筋に沿って研究を進めて行ければとも思うが、別の視点から見ると色々と不満も感じる。とはいえ、定義というものはあくまでパフォーマティブなものであって、何がしたくて、何を論じたいのかが重要である。そもそも「論じる」のではなく事実を直接示したいときには上記のようなものでは駄目だけれど、宗教-哲学と心理療法をむすぶという(非常に難しい)目的のためには、何とか役立ってくれそうには思う。(このあたりのことは後日より詳細に)