自己分析について

自己分析は、空の場から為されない限り虚しい。意識の場に於いてはそれは全く当たり前に「自己を捉えることによって自己に捉われる」結果になってしまう。つまり、そもそも誰が何を分析するかということが明らかでなければならない。

愛をもって、他に開かれた自己をさらに開かせるような意図でもって、仮に為すという仕方であれば、自己分析は有用となるだろう。衆生無辺誓願度の特殊な展開を辿る仕方であれば、それは有益であろう。無執着で優しく、遊びと喜びをもって自己をみつめよう。

君は何が好きで、どんなことをするために生きているの?

言葉がたましいのどの深みから出ているかによって、意味は変わり、それは「奇跡的な一致」によって、相手のたましいにまで響く。「奇跡的な一致によって」ということは、相手が自己の放棄によってその言葉を受け入れることができたらという意味だ。そうすることも、そうしないことも相手の自由だ。

 

 

(禅と心理療法の)相容れなさ

(大きなタイトルにして誰かにヒットするのが恥ずかしい)

たとえば禅の哲学ということが言われ、西谷啓治井筒俊彦などが偉大な仕事を残しているが、それを所与のものとして与えられた私たちは、禅と哲学がいかに相性が悪いか忘れがちでないだろうか。単純に言っても、一方では考えるなと言い、一方では思考が中心である営みを、ひとつにすることは不可能事に等しい。大拙や西田が切り開いてくれた文脈があるから漸く、実際に両方をつかんだ天才が何とか手をつけられたくらいの仕事である。

僕は狭義の意味での瞑想、或いは禅と心理療法を何とか結べないかと試みるものであるけれど、実践上はともかく、特に理論面において、両者は大変相容れない。そもそも完全に前提も方法も違うようなところがある。たとえば単純に言って、人間など存在しないというのに、どうして人間関係の悩みを取り扱えよう。一方では取り扱うなと言い、一方は誠実に取り組むべきと言う。

しかし、実際のところを言えば、特に実践に於いて、両者は容易に統合しうる。例えば優れた老師が参禅者の悩みを聞くとき、端的に最高の心理療法と禅の統合がある。

でもそれが成立するにはいくつもの条件がある。今詳述出来ないけれど、例えば参禅者の師と仏法への信頼など。親しく向かい合う二人の少なくとも一方が無(或いは空)に開かれていることが必要条件であり、もう一方がその空の場に参入することを自ら選択するとき、その場合にのみ真の治癒が生じうる。

禅の老師がそこにいればそれだけで空の場はもう開かれている。それはどのような時にでも開かれている。必要なことは、人が自らそこに参入することだけだとも言える。それを励ますことが、心理学が人間にできる最大の貢献ではないかと、大体そんなふうに考えている。

 

これはもちろん、偏った見方である。

いざない

どれだけ泥酔しても人と話すときはしっかりしているのに、少しのお酒でも文章を書くのは無理らしい。元より少しのお酒でも実はけっこう酔ってしまう。缶ビール一本でとろとろに酩酊している。

 

ということで、ほんの少しだけ、頭を使わなくても書けそうなことを。

 

今日から彼女が5日間の禅修行に出かけるので、昨晩から家にお邪魔していた。部屋に入ってしばらくして、明らかに異常な量の祝福があたり全体を覆っていて、老師が坐にいざなっておられることに気づいた。(今も意識を入れるとものすごい恩寵を感じる。言葉が書けないのはそのせいもあるだろう)空気がきらめいており、懐かしいような、愛しいような、ともかくありがたいオーラが満ち満ちていて、言葉が消える。存在していることの奇跡がからだ全体で感じられるような、圧倒的な愛が直接注入されるような感覚だ。

「老師が招いてくださってるんだね」と言うと、一週間ほど前からそうだと言う。あら。今頃気づくなんて僕はずいぶんうっかりしていたな。思い込みだったら恥ずかしいと思ったけれど僕がそう言うならそうなんだろう、とも言っていて、僕としては間違いなくそうだと思う。

ああ、これを正しく受け取れる人がどれだけいるだろう。受け取れている彼女はきっと心から歓迎されるはずだ。どうぞ素晴らしい接心となりますように。

 

離れていても心はかよう。

それはいい意味でも悪い意味でもそうなのであって、普段、人々は呪いの応酬に明け暮れている。そのなかでなお絶対的に善いものだけをやり取りしようと願う僕にとって、まったく無心の愛を、ひたすらに放射し続けている方々の存在は、本当にありがたい。

 

意識の極北に言葉は無用だ。ただ愛だけが、愛を愛してやむことがない。

ゆりちゃん、接心がんばってね。

 

合掌

信仰告白私解1 宗教について

信仰告白 - 窪田圭佑の比例中項

私はK大学文学部宗教学専修にて、宗教を「人が人と交わりつつ、本当に自己自身となる過程を歩むこと」と捉え、現代においてその道を歩むためには従来の禅などの伝統に加えて、心理療法と、野口整体の知見を活かすことが有用と考え、研究しました。

ここでは宗教を「人と人が交わりつつ、本当に自己自身となる過程を歩むこと」と捉えたということにしている。これは、元々は西谷啓治の「実在の実在的な自覚」という定義を念頭におきつつ、心理療法に親和的に書いてみたものだ。

実在が自覚する、真実が真実として目覚めるということである。実在というのは本当に存在するもの、確かなもの、宗教の言葉でいえば神である。そして自覚というのは英語で言えばrealize、実現すると共に理解(体得)されるということ。そしてそれが実在的に、つまりリアルに、自分自身にとって本当に、ということが含まれる。実存的に、と言っても良い。

実在である自分が、自分自身で本当に、実在として実現する過程が宗教と呼ばれている。

これは神の側でも人間の側でもないところから宗教を捉えるすぐれた定義だと思う。非常に動的で、実りある展開を生んでゆく。

西谷は哲学という文脈で宗教を論じており、僕は心理療法という分野で宗教を生かそうとしている。そこで、あくまでも人間の心ということに焦点が当てやすいように書いてみたのが、「人と人が交わりつつ、本当に自己自身となる過程を歩むこと」という定義である。

実在が自覚する過程で、人は人と交わるということを抜きにすることはできない。人と本当に交わることができない、ということの痛切な自覚が宗教的求道の一部でなければならない。そして本当に人と交わるとはどのようなことか、どうすればそれができるのか、ということが問い直されなければならない。

とはいえ交わってばかりでも駄目であり、どこまでも神の前に一人立つ、という態度も必要である。一切を尽くして神を愛する、という態度のひとつの表現として、人を愛するということがなくてはならない。そして人を愛するとき、神のことを忘れるくらいでなくてはならない。一度すべてから離れきって、そこからまた関わる、というのが宗教的探求のひとつの形であろう。そいういうことを全て含みこんだ上で、「人が人と交わりつつ」。

「本当に自己自身となる」

ということだけれど、本当に自己自身となると言っても、何かこれから実現されるべき自己というものが別にあって、それを目指していくというわけではない。ただ、いつでもどうしようもなく自己自身であることに目覚めていくだけだとも言える。とはいえその歩みをひとつの視点から見ると、偽物の自分、誤って自己同一化した様々な実在でないもの、が、手放されてゆき、元々あった本来の自分、すべてに気づいてゆく過程、と言えなくもない。

「過程」

そしてその歩みは終わりがない。これで完成、という決まったゴールがあるわけではない。もし終わりがあるとすれば、終わったのは偽りであり、それは終わりなきはじまりでなければならない。

 

だいたいそのようなことを考えて書いていたように思う。書いたときには本心であったし、この筋に沿って研究を進めて行ければとも思うが、別の視点から見ると色々と不満も感じる。とはいえ、定義というものはあくまでパフォーマティブなものであって、何がしたくて、何を論じたいのかが重要である。そもそも「論じる」のではなく事実を直接示したいときには上記のようなものでは駄目だけれど、宗教-哲学と心理療法をむすぶという(非常に難しい)目的のためには、何とか役立ってくれそうには思う。(このあたりのことは後日より詳細に)

自己開示

読書会に来てくれたり、一緒に瞑想する友達を別として、あまり人から理解されることがない。そもそも何も考えないでいるというのもあるし、あまりにも常軌を逸した世界を生きているからでもある。

普通の人が考えたり大事にすることを全く考えず、捨て去っているし、代わりに誰も考えず、気にもとめないようなことを非常に大切にしている。

それは例えば瞑想や神、愛や美しさといったものだけれど、それらは言葉にするのが難しい。本当に打ち解けた者同士でだけ、恥じらいつつ話せるものだと思う。でも僕が考えたり大事にしたりしているのはそれらだけだから、そして、それらを人々と共にすることだけを生きる意味としているから、理解されないことは悲しい。僕が、理解されないことが悲しいのではなく(それもあるけれど)愛が、つまりその人自身が、無視されているようで悲しく思う。

 

読書会や瞑想の場で実際に誰かとお会いするとき、その場でただ愛だけが満ちるように心を配る。部屋の明るさや暖かさ、こちらの表情や言葉遣いなど様々なことを気にかけつつ、ただ愛だけであることを大切にする。何を話すかというのはかなり後になってからの問題だ。そして言葉というものは沈黙から生まれるものであり、沈黙へと誘うものでなければならない、と思っている。

 

ということで、言葉だけで自分を表現することが得意でない。ここではおずおずと自己を開示する練習をしてみたい。

信仰告白

私は京都大学文学部宗教学専修にて、宗教を「人が人と交わりつつ、本当に自己自身となる過程を歩むこと」と捉え、現代においてその道を歩むためには従来の禅などの伝統に加えて、心理療法と、野口整体の知見を活かすことが有用と考え、研究しました。
在学中より禅寺での下宿をはじめとした瞑想修行を実践し、卒業後は、そのような意味での「宗教」を実践している整体道場にて住み込みでの研修をし、知見を深めました。
研修を終えた後、今まで自分が学んできたことを、自宅での宗教哲学読書会・瞑想会・整体指導などを通して、縁のある人達に伝える試みを始めました。
そうして様々な人達と関わる中で、多くの人が瞑想修行の実践に困難を感じ、また身体からのアプローチも限界があることに気づきました。
そのような人達に必要なことはただ共におり、話に耳を傾ける他者の存在であることを感じました。それに加えて、「単なる友人」という関わりではなく、「職業者としてのカウンセラー」という身分と枠組みによって可能となる働きが多くあるのではないか、とも感じるようになりました。
そのために必要な知識と実践知を身につけるには確かな制度と先人に学ぶ必要があります。
以上のことから、物語やイメージを大切にし、傾聴を通して深層心理へ共に降りることを通して傷ついたたましいを癒やすことを可能にするような心理療法の専門知を学びたく、貴学への入学を志望します。

臨床心理を学ぶために大学に入り直すことを決めて、志望動機として提出したのが上記の信仰告白である。幸い、この愛の告白は受諾され、今年の春からまた京大に入ることに決まった。

このブログでは、このような志をもって学ぶことをゆるされた、私の日々の学習の過程を記したいと思う。